蜜の肺、蜜の夢
端には蜜色。
神は銀杏の樹に舞い降りた。
豊かな巻き毛のまなざしで。黄金のときは、遠く鐘を鳴らして、わたしたちにおとないました。
地中の蝉の子が身じろぎする。命は戦慄しつづける。ねえ。息が。聞こえませんか。ほら、息が。聞こえませんか。
古代より歌われるニューロン。偉大なる銀杏よ。
瑞々しき木乃伊のうつくしさ。蜜の骨。蜜の葉脈。金色のときよ。
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端には蜜色。
ああこれは、誰が見る景色。吐息なく丸く眠る 蝉の子の夢の中でしょう。
絹のキチン質を纏い、絹の水脈から来たる。光のように飛翔せよ。冬の蝉の子ら。
地中では 翼が無くても飛べるのよ。
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痛みや悲しみでしか音楽を感じることができなかったり。または痛みや悲しみでしか音楽を刻めない、というのはきっとわたしの悪い癖です。
痛みでもって悲しみでもって、胸が締め付けられないと、タンゴが楽しく無いというのは悪い癖です。
わたしの過去に、そんな大層な悲劇なんか、たぶん無いのに。なんにもわたしは、痛くなんか無かったかもしれない。我ながら、薄ぺらい人生を、歩んできました。
どうしてこんな、痛がるのでしょう。降り注ぐ矢のように痛い曲ほど、自分の宿命のように感じるのはどうしてでしょう。そういうものほど、踊りが楽しいのはなぜでしょう。
当たり障りないだなんてさみしいから、むしろ傷つけてほしいとさえ思う。
幸せものではないから、わたしはタンゴが楽しいのでしょうか。
きっとわたしは、わたしの人生が深刻でないのでしょう。だからそんなことが"楽しい"だなんて言うのだわ。
全部、嘘です。
わたしのさみしい犬
晴れた昼も、そのまま滑らかに下降する夕暮れも、一様に青さを持っている。空が青いから青いのでは無い。容器に入れた水のように、青が充満して、おかげで思考が人にまで知られない。おかげで誰の心も、わからない。
仕事をしているとき。踊り場で誘いを待っているとき。わたしの中のさみしい犬が、ちがう世界の冬の海を、冷たい浜辺に座って眺めている。ただただ、ずっと、ずっと、海の向こうを見つめている。細い尾を垂らして。
わたしのかなしい、黒い犬。暗い海の向こう、一筋をひしと信じる、かなしい犬。
ああ、かわいそうな子。もっとあたたかい場所で、おいしいご飯をもらって、撫でてもらいなさい……………
現実、はたから見たら、わたしはただの陰気な哀れな小さく醜い女。誰にも関われず、一生をこのまま終えそうだ。さようなら。通り過ぎていった時よ。眼裏から溢れた粒子よ。おそろしき反射よ。ちら、ちらと確かに見えていたような、あなた。わたし、覚えていました。
飾り羽根、白昼夢
生き損ないのように、ただ息をしている。
もう、12月になってしまった。道ゆく人々が、まるで羊のように、追われせき立てられ歩いているように見える。
どこへゆけばいいのか。わたしは砂金で描かれたカードを、失くしてしまった。
塞がりの景色の中、せめてあかるく口ずさむ。
わが心は野となりき。揺れる草花。
または風。羽搏く旋風。したたかに空を打てよ。綿のように抱けよ。
島を走り、海を渡り、大陸に至り、また海へ…。通り過ぎゆき、二度と、かえらない。
夢みる約束
世界は水彩絵具だ。と、唐突に正面から撃たれたかのように気づくことがある。
滲むように色が変化していく。今日までの繁り。実り。歩みが。少しづつ、染まっていく。晒され揺れて滲み染まり、傷口のように、もうそれは元の色ではない。
それは時に、思いもよらず。知らずのうちにしていた堅い約束のように。かなたより到来する予知夢のように。遠い過去から、パルスする。
驚くほど分岐している樹に出会った。
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ペアダンスを踊っていると、「親和性」という言葉が目に浮かぶ。どれだけ親和性高く、あなたと踊れるか。
世界は水彩絵具だ。ここは音楽という液体に満ち満ちているし。時間は魔的に厖大な溶媒と成り果てている。わたしたちはあっという間に、水溶性の形のそぞろなものとなる。
あなたはわたしを侵食し、わたしはあなたに侵食する。そうしてたちまち、今日までの歩みが。無残な程一気に、忘却されて。
ああ。わたしこの人とふたりで懸命に、一大事業を成し遂げようと、生きてきたのだ。生きていくのだ。
そう、錯覚する。
……だって、こんなに、宿命のような音楽が、鳴り降り注ぐのだから……
……タンダが終われば霧が晴れたように、そんな幻想は残り香もなく消え失せる。
一大事業よ、さようなら。かりそめの記憶よ、さようなら。サヨナラダケガジンセイダ、を幾層も幾層も重ねて通り抜けて。夢の中の盛大な砂の上の歩み。ひとさしの、ほほえみ。
──それでも、一心に、身をこがすように思っておりました。ひとしきりに、あなたとの。茨の細径を掻い潜って歩を進め、血と歓びで織り上げた、一大事業を。
秋の午后
ひとつ、寒い日を迎えたと思ったら、あっという間に色づいた。ゆるやかな風に触られるだけで、からからと落ちていく。
こんなに軽くなったのね。睫毛のおとないだけでも、乾いた葉脈が数枚地に落ちる。
こんなに、軽くなったのね。だけれど貴方達は決して渇かない。
空はさやか。空気はさやか。眩しくて、目に滲む。
滲んで滲んで痛い。命がどこか、渇くよう。人はおろかで、かわいそう。
人ってだあれ。わたしのことよ。
淋しい、が降りゆき
今朝は雨が降ると知っていた。
朝の支度をしていると、あまりに静かだったから、もう降っていないのだと思った。生活に怠惰なわたしは、起きてカーテンや窓を開けて、朝の光や空気や鳥の声を部屋に入れるという習慣が無いせいもあるのですが。
仕事に行くためにドアを開けると、アパートの共同廊下が一面濡れて、鈍く光っていた。
時刻は午前6時半前。雨は、静かに降っていた。
世界中の音が、天の獣の大きな眠りに吸い込まれていた。毛皮の色は、灰色にも緑色にも見えた。
雫一粒一粒は、跳ねることなく、地面の光沢の一部になった。
今日は電車さえも、ホームに入り込む音をさせなかった。山手線も。西武線も。
そんなに静かに降るだなんて。
こんなに静かに落ちるだなんて、淋しい気がした。
淋しい、という字は、きっと今日のように、音もなく降る雨の様をあらわしているのよ。と思った。
寺山修司の詩に、この字に関しての詩が、あった気がする。それを朗読したCDを持っている。
もしわたしが雨の一筋だったなら。
風に…強い強い風に、苦しく苦しく吹かれたい。思いきり、脅威に、強度に揉まれて。吹かれて打つのだ。打ちつけるのだ。木々を。虫たち。馬を。牛を。岩を。人工物を。
打って跳ねて、走るように流れていく。
そんなに静かに、降って落ちて消えて流れるなんて、嫌だ、嫌だ……
……淋しくて怖い………
昼前には、抱きとめられないほどの風が吹いてきた。ああ、よかった。こんなに、冷たい、風が吹くなんて。
バスを待っていた。横殴りの雨はわたしの上着を靴を濡らした。隣の女の子の、トレンチコートの裾を大いに濡らしていた。
コンクリートの上を、雨粒が跳ねて風は波紋を作り、躍っていた……。
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仕事の話。あるお客さんと接するのがつらいと、先輩に相談していた。
政治の話や、いま戦争しているどこぞの国のナニ人の良くない話を、延々延々と話されるのがつらいのです。という相談を、聞いていただいた。
もう、そのお客さんと関わるのはよしなさい。と、先輩はアドバイスをしてくださった。
その時は本当に、「ええ、そうします。そうしたい。楽になりたいですもの。わたし。」と思ったので、正直にそうお返ししました。
「そんなお客さんと長く関わってきたなんて、あなたは優しいわね。」とそのかたはおっしゃった。
優しい、ってなんでしょう。きっと、そうじゃないんです。
わたしには、お友達も恋人もないから。普段おしゃべりする人が、いないから。
お友達への優しさも。恋人への優しさも。あげる機会を持てないから。
わたしが人との繋がりのほとんど無い悲しい人間だから。ささやかな繋がりの人にも、冷たく切り離すようなことが出来ないのです。甲斐性のない、人間だから。わたしの中の、区別が、できないのです。大切な人以外にも優しさをあげたいのは、本当はかわいそうなことではありませんか。
わたしは結局、そのお客さんを切って捨てることがこの先もできないでしょう。ひとつひとつ話聞いてやり、相槌を打ち、重たい荷物は持ってあげるでしょう。
わたしの優しさとは、空っぽの、値打ちのない、空虚の陰が揺れてるだけです。
合理的な理由で、縁は簡単に切れてしまう。正しい理由で、いとも簡単に、切ることできてしまう。
不安な縁を、ひとつひとつ束ねて。最後までいくつ、大切に持っていられるでしょうか。
助けて。何から?
公園の樹々が、緑を手放し、みるみる軽くなって。
瑞々しかった時の執着など無しに。いやそれは、自然にとっては、当たり前なのですけれど。
木肌が捲れて剥がれている銀杏の樹がありました。銀杏の幹は、賢者が長い時を経て岩や樹と成り果てたかのように、深い皺が刻まれゴツゴツとしているのに。剥がれているそこはとても滑らかなのでした。
☆
わたしは何も持たざるものです。その空っぽさを常に感じます。
秋の空はどこまでも抜けるようです。
殊更同性にたいしての劣等感がすさまじく、自分自身が本当に、醜くて厭わしい。
このまま、誰も愛さずに、家庭を築かずに死んでいくのかと思うと恐ろしいです。今の世の中、それが人の全てではないとよく言われていますが、それでも、わたしの願いは古くさいものに他なりません。
わたしが死んでも、誰も気が付かないでしょう。何も持てない生活を、あまりに過ごしすぎてしまいました。
品性と美徳の無い世の中にも、つかれました。品性より、美徳より、今の世の中とは優先すべきものが沢山あるようです。
空気がなくて、苦しいです。きれいな水が飲めなくて、苦しいです。
もし、誰か、尊いかたが。わたしに、生きててほしいとおっしゃってくださったならいいのに。誰か良いかたが、わたしを受け入れてくださったら、良いのに。
身体の中のものを、清らかな泉で、すべて綺麗にして。ひとつひとつを丁寧に干して、待っていたい。
でも女にはあまりに、時間がない。何も持たないわたしから、細胞が少しずつ、流れていく。自らの濡れた髪で、首を括ってしまおうか。わたしの従順な、長く流れる髪で。ないてうめいて。ないてうめいて。水底まで沈んでようやく、心が静かになれるだろうか。
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『進撃の巨人』のアニメ最終話を観ました。原作は読んで無いのでまったく初見でした。
繋がりが欲しかった、繋がりが愛おしかった、繋がりを何一つ捨てることが出来なかった始祖ユミルがかなしく、とても好きになってしまいました。
あと、アルミン役の井上麻里奈さんの演技に心打たれました。演者さんって、本当にすごいなあ。