アンチ・コミュニケーション
子供のころは、よく指をクルクル回してトンボを捕まえていたものでした。
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夕陽の中、トンボが薄い翅を伏せて綺麗に葉に止まっていて、写真を撮ろうとするとわたしのスマホでは、なかなかピントが合わない……
そうこうしているうちに、ぶわっ。と手の甲を風がかすめました。目の前のトンボが飛び立って、わたしの皮膚に、翅が切った空気が当たったのでした。
思わず、その場でひとり、声をあげて笑ってしまった。
わたしが手の甲に貰い受けた衝撃は、昔確かに触れて感じたことのあるものでした。
トンボ。蜻蛉。セイレイ……セイ、レイ……なんて綺麗なその名前。大きな眼に見られることなく、翅は陽を抜けいよいよ透き通っていく……
美しい、肉食の精霊よ!
あと、トンボとは飛ぶ棒、みたいのが語源のようですが、おそらく子供の言葉の発祥なのだろうと勝手に思っています。(たしか『たんぽぽ』がそうだと何かで読んだような………)
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アルゼンチンタンゴに限らず、ペアダンスは言葉の要らないコミュニケーションだなんてよく言いますけれど、果たしてそうかしら。
(リードとフォロワーのそれぞれのお仕事、という意味では、そうであるのでしょうが。)
わかりあう、なんて。なんて怖気のする言葉。こんなものに人類は取り付かれてるのなら、それこそ病ではないかしら。
お澄ましの顔をして、あなたにはわたしの本心なんか、渡してあげません。渡してなるものですか。
ふりなら、気が向けば、してあげる。
わかってください。わたしのことを。どうかわかってください。
……とも願っているくせに。矛盾してますか?だって、わたしは一面しかない見出しではありませんから。いいじゃないですか。
本当のことは怖いから、見せかけをください。
優しいまなざしを投げるふりを。指先で愛を語るふりを。音楽がもたらす畝る熱のもと、さみしさを味わうために絶妙に身体を離してみたり、そしてふと欲しあうがままのように重なり合ったり。
パーティーの薄闇の中を照らすさまざまな色をした照明を、あれはあの日の秋の陽の光…ああこれはあの場所あの海辺の光…と"まちがえる"ように…………
あの日のことは、そんな幸せではなかったし、あの場所にはわたしは居なかったかもしれないけれど。
……嘘や"まちがい"であったとしても、あなたからふといただいた優しさが、遥か昔たとえば誰かに求めた本当の優しさと、同じだったかもしれないと……幾重もの時間が一瞬の間に目の前に折り重なり、抗えず涙ぐんでしまうのです。